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Atoa. Ken Kamikita 『人から人へ~序~』Concept Live

2026年6月14日(日)

2017年にAtoa.ファーストEPにて、上北がレコーディング参加以降、2018年舞台【命の装い】、2021年【TRANCEST】、2023年【ココカラ先へ】等、数々の共演を経て、今回は、3人体制での新曲を発表。
和太鼓とボイス。独特な和のリズムと電子音が織り成す新たな感覚と新しい音楽表現が特徴。
2026年Atoa.結成15周年を迎えるにあたり、3人体制での活動の序章となる本公演に、是非ともご期待ください。

 

【日時】
2026年6月14日(日) 
開場 14:00
開演 14:30

 

【会場】
能-BOX

 

【出演】
Atoa.
上北健

 

【観覧料金】
前売り:4,000円/当日:4,500円

 

【チケット購入】
https://atoashop.stores.jp/

 

【お問合せ】
MAIL:wadaiko.atoa@gmail.com

総合学園ヒューマンアカデミー仙台校 『My Color 憑依ペンダント』

総合学園ヒューマンアカデミー仙台校 『My Color 憑依ペンダント』

総合学園ヒューマンアカデミー仙台校 パフォーミングアーツカレッジ卒業公演2024

My Color 憑依ペンダント

【日時】
2024年9月28日(土)・29日(日)
9月28日(土) 
Aキャスト13:00
Bキャスト16:00
9月29日(日)
Bキャスト11:00
Aキャスト16:00

【会場】
せんだい演劇工房10-BOX box-1

【入場料】
500円

【お問合せ】
総合学園ヒューマンアカデミー仙台校
022-712-7035(担当:芹沢・大風)

仙台高校演劇部第8回単独公演「停学の名人」

仙台高校演劇部第8回単独公演「停学の名人」

仙台高校演劇部第8回単独公演

停学の名人

作  石原 哲也
潤色 杉内 浩幸
演出 一條 貴顕

【日時】
2024年5月3日(金)・4日(土)
5月3日(金) 19:00
5月4日(土) 13:00/17:00
※開場は開演の20分前です。
※公演開始時刻等は多少変更になる場合がございます。

【会場】
せんだい演劇工房10-BOX box-1

【出演】
大沼 星来 一條 貴顕 阿部 琉之丞  元村 明日花 溝口 心優 三浦 沙月

【料金】
全席自由
前売券:400円/当日券:500円
※前売券をご購入の場合は、下記お問合せ先か、
 仙台高校演劇部員にお申し付けください。(5月1日〆切)

【お問合せ】
TEL:090-2884-1977(杉内)
MAIL:sugisugi_h@me.com

方丈の海2021アフタートーク

方丈の海2021アフタートーク

仙台舞台芸術フォーラム

方丈の海2021プロジェクト『方丈の海』アフタートーク

登壇者:渡部ギュウ、大信ペリカン、野々下孝、本田椋

 

『方丈の海』再再演への思い

渡部 まずペリカンさんから今日の上演の感想をいただきたいと思います。

 

大信 みなさんお疲れさまでした。すごく面白かったです。「憎しみと欲望をこの場所に持ち込むな」という言葉。うん、いいなと思って。私自身も脚本を書くんですが、震災を扱った作品を書くのって難しいんですよね。演劇を創る時ってなんらかの結論を出さないと、お芝居として面白くなくなってしまうので。石川さんが震災の翌年に震災を扱った作品を書いて、この結論に持ってきたところがすごいなと思って観てました。10年後を舞台にするという着眼点もすごいなと思ったし、もちろんお芝居としてすごく面白くて。喪失の物語じゃないですか。みんなそれぞれ何かを喪失していて。岡田さんは目が見えなくなっているし、それぞれが津波で大切な人を亡くしていたりとか、故郷を失っていたりとか、記憶を失っていたりとか、そういう人が集まることでどんなドラマが生まれて、どんな結論が導けるのかという戦いだったと思うんですけど、それがスッと入ってくるというか。そして野々下さん、本田くんはすごくいい味を出してました。

 

渡部 では野々下孝さんに、今回参加してみてどんな感じだったか一言いただきたいと思います。

 

野々下 やっぱり石川さんの作品であり、石川組の方々も役者として出演されている作品でもあり、再再演でもあるので、エポックメイキングな、照射距離が遠い作品にしたいなと思って。この公演は仙台舞台芸術フォーラムの一環でやっているので震災メモリアルの枠組みで見られると思うんですけど、このあと「座・高円寺」でやる時には、色眼鏡なくストレートに「面白い」と言ってもらえるように、間口を広く、どこまでも遠くに飛ぶような演劇を作ろうと思って、自分の役を掘り下げることでその方向性を示そうと思って取り組みました。

 

渡部 本田くんとは初めて舞台をご一緒しました。原作というわけではないんですが三島由紀夫さんの『豊饒の海』という長編小説があって、非常に難解で私は5ページくらいでギブアップしてまだ読めていないんですが、本田くんは全部読んで「たぶんこのネタはこれです」って教えてくれて。本当に考察力もあり、貪欲な俳優さんです。感想を一言お願いします。

 

本田 僕はギュウさんとやらせてもらったのも初めてでしたし、石川作品の中に立てたのも初めてで。震災当時は僕、大学生で、演劇部で一生懸命演劇をやっていて、石川さんにちょっと名前も覚えてもらって「今度一緒にやれたらいいね」なんてお声がけいただいたり、『方丈の海』の再演の時に1回オファーをいただいたんですけれども大学が忙しくて受けることができなくて。個人的な話になってしまうんですけれども、石川さんとの約束を10年越しに果たしたいなというところもあって参加しました。でもやってみると、よくわかんないなと(笑)「石川さんの作品はよくわからんぞ」と思いながら、毎日石川さんの遺した言葉と格闘する感じで。仙台公演は後半戦に突入しましたけど、東京に行ってもまた変わっていくと思うので、最後どういうところに行き着くのか、楽しみだなと思いながらやっています。

 

渡部 そうですよね、わかりにくいところがありますよね。関連するセリフというよりは、あまりにも論理的にロジックでしゃべっていくので、それを身体で埋めたり、ここがポイントだぞって押していかないと、何をしゃべっていいのかもわからなくなるし、何を伝えていいのかもわからなくなるので。でも僕が本田くんに指導させていただいたのは2箇所だけです。あとは自分の創意工夫でアプローチしておりました。初演、再演と出演したメンバーで今回も出演しているのは、絵永けいと横山真と佐々木久美子さんの3名だけなんですね。今回、キャスティングも任されて、最初、もと十月劇場とOCT/PASS(オクトパス)の人たちに声をかけてはいたんですが、途中から新しい人でやろうということにして。石川作品の魅力をできるだけ若手に体験していただきたいということで、再構成して演出させていただきました。ドラマとしても面白くしたいし、それだけでなく、役者、スタッフたちのこの10年の経験値を生かして、ちょっとはみ出すような演劇を作りたいということで、途中脱線するようなシーンも織り交ぜながら構成しました。

 

 

これからも東北で

(『方丈の海』 2021年3月 撮影:小田島万里)

渡部 では、みなさんお一人ずつ、今どんな状況なのかをお聞きしたいと思います。ペリカンさんは自分のアトリエを作っているんですよね。

 

大信 まさにこの作品に出てきた「岡田劇場」みたいな劇場を作りたくて、今、福島に小さなアトリエを作っています。去年から準備しているんですけど、新型コロナウィルスの状況がなかなか読めないのでいつ始めようかなというところはあるんですけど。何人かの有志で作ってはいるんですが、私が頑張らないとこのアトリエはいつまでも開かないなということに最近気づきまして(笑)今年はアトリエの開設と運営を頑張ってやっていきたいなと思っております。

 

渡部 作品創作の着眼点とか、今、興味があることはいかがでしょう。

 

大信 そうですね……あんまり無いんですけど(笑)有りものをやってみたいなと。最近の自分自身の興味でいくと、芝居芝居したものにすごく興味があって、藤山寛美とか見ています。そういうのをやりたいなと思っています。

 

渡部 現代演劇は社会のいろんな問題を扱っていくんですけれども、手触りを間違うと舞台に暴力や無残さしか上がらないというか、人の傷を開いてみせるような作品になる場合も多々あって。そこはやはり物語の力で、物語構造で、主人公が他者の力を借りながら問題を乗り越えていく姿を示さなければいけないかなと、そういう素朴なことが大事なんじゃないかという気がしています。コロナ禍で人恋しくなっているのかもしれません(笑) 野々下さんは現在どんなことを考えていらっしゃいますか?ARCTの代表でもありますが。

(『方丈の海』 2021年3月 撮影:小田島万里)

野々下 ARCTの現在は、震災直後にやっていたネットワーク体として活動する責務を下ろしまして、アウトリーチでワークショップをやっていく活動に落ち着いています。もう被災経験のない子どもたちも多くなっていますので、震災復興のためということではなく、日常にアートを持っていくことの価値がお母さんたちや子どもたちにも感じてもらえるような形でワークショップを開いていければと思っています。
作品創作に関しては、僕はギュウさんとちょっと違って、暴力的なものをやりたくてしょうがなくて(笑)とにかく傷を開きたいです。傷を開いて劇場で見せたくてしょうがないみたいな欲望があって、ただひたすらそれをやろうと。また5月に東京で公演をするんですけれども、それに向かって現在創作しております。

 

渡部 この演劇の多様性ね(笑)いろんな考え方でアプローチしていいんですよね。昨日、日本演出者協会の前の理事長の和田喜夫さんと電話でお話したんですが、仙台のみんなはこの10年間で非常に「日常と演劇」というのを考えて、自分の作品づくりプラス、どのジャンルの誰と関わるか、広がりを示す活動をしてるので、非常に頑張っている印象を受けていると言われました。他の都市ではできていないのが、なんで仙台はできるんだと。それはやっぱり、10-BOXがあることや街のサイズもあるし、そこへ震災があって、子育てと演劇とか、子どもたちと演劇とか、高齢の先輩たちと演劇とか、プロもアマチュアもなく幅広い視点で活動せざるを得なかったからかなと思います。いいことだと思います。ただやっぱり少数派なので、我々の活動がもっともっと広がっていくといいなと思って発信を続けていますので、これからも仙台演劇に注目していただければと思います。
本田くんは短距離男道ミサイルの代表ですが、どんな10年でしたか? これからどんな10年にしたいですか?

 

本田 短距離男道ミサイルは震災をきっかけに結成されたチームなので、これからも震災とともに歩んで行かざるをえないというか、そうなるのが自然な感じがしていて、節目節目で立ち止まって、振り返って作品を創るんだろうなと。作品性も東北に根ざしていけたらと思います。東北の芸能と出会うことが最近多くて。鹿踊りとか鬼剣舞だとか。劇団員の中にも鬼剣舞を習いに行くメンバーが出始めたんですけど。東北に伝わる話、東北の歴史をテーマにして、東北でしか作れない作品を発信していけたらと思っています。何か新しい、ネオ伝統芸能のようなものを作れたら。どんなものかまだわかりませんけれども、誰も見たことがない、しかしこれは東北でしか作れないというような舞台ジャンルを創作できたらと考えております。

(『方丈の海』 2021年3月 撮影:小田島万里)

渡部 この10年本当に頑張って、ツアー公演もしてましたね。キャンピングカーを借りて東北中を回って。

 

本田 1ヶ月で24〜25箇所くらい回りました(笑)

 

渡部 その『走れタカシ』は「若手演出家コンクール」でも最優秀賞を受賞しましたね。加藤隆さんていう役者が、どこから走ったんでしたっけ、渋谷かな? 

 

本田 新宿かな? 新宿から下北沢だったと思います。

 

渡部 開場した劇場のモニターに、主演のタカシくんが走ってくるのが映るんです。彼が劇場に着かないと芝居が始まらない。

 

本田 そうなんです、開演時間に間に合うように、まさにメロスが走ってくる。

 

渡部 『走れメロス』を下敷きにして、加藤くんという役者が福島で震災をどのように体験したかを半ドキュメンタリーでやる作品でした。

 

本田 毎日20kmくらい走って、膝を壊しましたね(笑)

 

渡部 最近は古典もやっているし、バカなことをやってるけど非常に頭のいい集団だってみんな言ってます。みんなで考えながら1本1本創っているところが劇団らしくてうらやましいなと思うところがあります。メンバーは同世代なんですか?

 

本田 そうですね。入れ替わったりもしていますが、近い世代になっています。

 

渡部 東京に場所を移したりしないですよね?(笑)

 

本田 多分しないと思います(笑)

 

渡部 ありがとうございました。震災から10年経って、こうして笑えるようにもなりました。作品の中で笑顔を出すことも不謹慎かな、なんて思った時期もありました。ペリカンさんの『キル兄にゃとU子さん』、先日の公演を拝見しましたが、いい芝居でしたね。シェルターの中に3人が閉じ込められているような、その中で抒情詩的なセリフを語っていく、ジャン・ジュネの『女中たち』みたいなね。いろんなことを考えるし感じる、面白い芝居でした。野々下さんのところも、最近はいろんな空間でやってますよね。短距離男道ミサイルも、今回の「方丈の海」に関わってくれたメンバーそれぞれが、今後もいろんなアイディアで東北の演劇界を盛り上げていきますので、どうぞ引き続き応援していただければと思います。本日はありがとうございました。

 

(『方丈の海』 2021年3月 撮影:小田島万里)

(2021年3月6日)

(構成・編集:谷津智里)

劇団うたたね.<ドット>『咆哮<私たちはもう泣かない>』アフタートーク

劇団うたたね.<ドット>『咆哮<私たちはもう泣かない>』アフタートーク

仙台舞台芸術フォーラム

劇団うたたね.<ドット>『咆哮 <私たちはもう泣かない>』アフタートーク

登壇者:三國裕子、武内宏之、矢口龍汰

 

『咆哮』が誕生するまで

矢口 本作の感想だったり、作品のテーマについて三國さんと武内さんにお聞きしていきたいと思います。武内さん、2019年にいしのまき演劇祭で本作が上演されたのをご覧になったと思いますけれども、今回あらためてご覧になっていかがでしたか?

 

武内 震災後、私が取材してきたあの人、あの場面のことかなと思うことがたくさんありました。おそらくはかなり取材されて、その中から選ぶ苦悩を経て作り上げた台本かと思います。本当にこれだけの取材、執筆、それを演じた三國先生はじめキャストのみなさんの演技力で、10年前のあの日のことを、目の前にあらためて突き付けられた思いでした。最後は涙が出てきてしまいまして、本当に素晴らしい演劇だと思います。今日、来る時に矢口さんから「伝承演劇」という言葉を聞いたんですが、私は初めて出会ったジャンルです。終演後の舞台挨拶でも「これからも続けていく」ということでしたが、10年を迎えて、これから改めて被災地の人たちのことを表現していっていただければと思いました。

 

矢口 新聞社時代に多くの方を取材されたご経験がある武内さんから、多くの方に取材したんじゃないかとお話がありましたが、この作品が作られた経緯を三國先生にお聞きしてもよろしいですか?

 

三國 新聞社さんに比べたら取材なんてぜんぜんしていなくて、これは私の夫が一気に書き上げてくれたものです。震災の後、私は「演劇なんてやっていていいのだろうか」と戸惑っている時期が長かったんです。演劇は娯楽のイメージがやっぱり強いので、そんなことをやっていては駄目だと思いながらも、どうしたらよいのかわからず自分を責めていたんです。その間に夫が、仕事柄、震災について見聞きしたことを溜めておいてくれた。そして私に「お前には演劇しか無いんだからこれをやれ」と。「この悲しい思いを風化させては駄目だ。伝えることが防災につながるんだぞ」って言ってくれて。いろんなことを諦めかけていたんですけれども、この作品が私の背中を押してくれて、一昨年初演しました。

 

矢口 震災後も数多くの演劇を上演されていましたが、迷いがありながらやられていたんですね。

 

三國 震災後は、楽しいことをやってみんなを元気づけようと思って、市民会館も文化センターも無くなった状態でしたけれども、施設をまわったり、とにかくできるところで楽しい芝居をやろうと考えていました。けれども、これでいいんだろうかと、やはりどこかでずっと自分を責めていましたね。きっとたくさんの人がそんな思いをされていたと思います。

 

 

「言葉にならない思い」を伝える

(劇団うたたね.<ドット>『咆哮 <私たちはもう泣かない>』 2021年2月 撮影:岩渕隆)

矢口 この作品はとてもストレートに震災のことを伝えていますが、伝承する使命を感じてこういう演出にされたんでしょうか。

 

三國 最初は使命感は無かったです。私自身も直接(津波の)被災をしている人間ではないですし、台本を読んで「うわ、これは大変だ」と。体力的にも精神的にも大変な作品だと思いましたが、とにかくやろうと。一昨年、演劇祭で初演させていただいた時に、被災した人たちからお声をいただいて「これは伝えなきゃ駄目だ」と、その時に思いました。

 

矢口 どんなお声をいただいたんですか?

 

三國 小さな劇場に80人近くギッシリ入って観ていただいて、最後に「ありがとう」っていうお声をたくさんの人からいただいて。「これを見て気持ちを吐き出せた」と言っていただいて、「ああ、私の役目はこれだな」と、その時に思いました。

 

矢口 このアフタートークの一つの大きなテーマが「演劇と震災伝承」ということになると思うんですが、武内さんは石巻日日新聞社が運営する『石巻ニューゼ』という展示施設の館長もされていました。ニューゼには、震災当時話題になった手書きの壁新聞が展示されていまして、それをお客様に見ていただきながら当時のことを伝える活動もされていらっしゃいます。そのお話もお聞きしてよろしいですか?

 

武内 私は石巻日日新聞社に38年間務めておりました。その中であの震災に遭ったんですけど、会社にも津波が来て、新聞社の心臓である輪転機が水没してしまいました。停電でパソコンも使えない。いったいどうやって次の日から新聞を出そうかと、当日の夜、社長を含めて話し合っていました。その時に、若い時に先輩から聞いた話を思い出したんです。日日新聞は大正元年の創刊で、震災の翌年の2012年には100年を迎えようとしていた歴史ある新聞社なんですが、日本は戦時中、言論統制のために「一県一紙政策」がとられ、他の大きな新聞社に統合されそうになった。それでも先輩たちは新聞を出し続け、やがて紙の配給もストップされると、そこら中のわら半紙を集めてきて鉛筆で記事を書いて地域に配ったと。入社したばかりの頃、酒が入ると先輩から耳にタコどころではなく繰り返し聞かされていた伝説でした。震災の夜、記者になって30年目でその伝説を思い出した。それで、じゃあ先輩たちのように紙とペンさえあれば伝えることはできるという発想が生まれて、工場に行きましたら、輪転機の上に新聞用紙のロールが濡れないであった。マジックペンは総務にストックがありましたから、明日から手書きだというのが震災の夜に固まりました。3月12日から6日間、毎日6枚書いて、6箇所の避難所に貼り出しました。他のマスコミにも取り上げられましたが、あれは私たちにとっては「これしかできなかった」証拠にしか過ぎないんです。2、3日経つと、大手の新聞社がペラ一枚ではあっても印刷したものを避難所に配り始めるんですよ。ですから、いろいろ取り上げてはもらいましたが、現場の人間としては決して誇らしい思い出ではないんですね。

 

矢口 当時はどういった取材をされたんですか?

 

武内 とりあえずは市役所に行って、そこにある情報をとにかく持ってくることから始めました。地震が起きて、それぞれ取材をしに出た後に津波が来ましたから、6人の記者のうち翌日に連絡が取れていたのは4人だった。津波に呑まれて6日目に戻って来た者もいました。車は津波の被害に遭ってますので歩いての取材です。だから、地元紙なんですが他社にどんどん抜かれていった。悔しかったですね。

 

矢口 石巻日日新聞は本当に地元に根ざした新聞で。今日一緒に来るときに「新聞は言葉にならない言葉の代弁者である」というお話を聞いたんですけれども、いろいろな人に取材をして、言葉にならない想いを記者が言葉にするということですよね。

 

武内 新聞社、マスコミ界でよく言われる言葉に「声なき声を聞け」というものがあります。心の中で思っていても、世間体を考えたりしてなかなか発言できない。そういう「声なき声」をどれだけ取材して拾って社会に問うていくことができるか。それから、SOSの無いところにSOSをどう感じるかということを後輩たちに言ってきました。石巻の半島で被災した人たちに「今何が欲しいですか」といっても「私は大丈夫ですから隣に行ってけらい(ください)」と言う。でも実際はどう思っているのか。心の奥底の言葉を拾うことは心がけてきました。

 

矢口 演劇も、言葉にしきれない思いや感情を直接目の前で体感してもらって伝えるという一つのツール、表現だと思っていて、まさしく今回の『咆哮』も、言葉にならない思いが叫びになるという意味のタイトルなのかなと感じました。

 

三國 心に秘めた思いは本人にしかわからない、それを言葉、文章にするのはものすごく難しいことですよね。『咆哮』というタイトルも夫がつけたんですが、私自身も最初「え、何?」と思いました。「ライオンの咆哮」などは聞きますけれども、「人間が咆哮するってどういうこと?」と。タイトルがあまりに重いんじゃないかと。でも今は、胸に抱えて言い出せない本音を吐き出せるところがある、相手がいることで、また明日へ進めるということが、このタイトルにこめられているんだと思います。

 

武内 「PTSD」という言葉がありますが、あれはアメリカ兵がベトナム戦争から帰国してから暴力的になる症状が現れたことから生まれた言葉だそうですが、大変な経験をした人にはできるだけ早い時期に思いを吐き出させた方がいいそうです。泣きたいならば枯れるまで泣く、叫びたいなら思い切り叫ぶ、それが後にトラウマを軽減させると。終盤の場面はまさにそうですよね。

 

 

大切な人とつながる方法

(劇団うたたね.<ドット>『咆哮 <私たちはもう泣かない>』 2021年2月 撮影:岩渕隆)

矢口 武内さんはご退職後も取材を続けられているそうですが、そのお話もお聞きしてよろしいですか?

 

武内 現役時代には報道部長もやっていましたが、休みのときは(牡鹿)半島に出かけたりして個人的に取材していましたし、ニューゼが2012年に開館してそちらに移ってからも、時間があるときは取材を重ねていました。個人的に3つの取材テーマを設けまして、津波で家を失くされた方、津波で仕事を失くされた方、そして津波で大切な人を亡くされた方の3つです。仕事は、復興に向けた建築・土木関係の仕事がたくさんありましたから、落ち着くまで食いつなげるだけの仕事はあった。家については避難所から仮設住宅、復興住宅と徐々に環境が整っていった。最後の、大切な人を亡くされた方、ご遺族がどのように心の復興を遂げていくのかということなんですが、これは今も続いています。『咆哮』にも出てきた幼稚園バスの被災で大好きなお姉ちゃんを亡くした妹さんが去年、短編小説を書いたんです。どういう物語かというと、お母さんから頼まれて買い物に行って、店の外に出ようとしたら妖精が目の前に現れた。妖精は願いを叶えるという3つの白い花びらを渡してくれた。最初に、病気で亡くなったお姉ちゃんにまた会いたいと願うとお姉ちゃんが出てくるんです。自分は12歳になっているんですが、お姉ちゃんは6歳で亡くなった時のままで、逆に自分のことを「お姉ちゃん」と呼ぶ。彼女はお姉ちゃんとままごとをしたりして遊ぶんですが、学校にも行かなきゃいけないし友達とも遊びたい。その間お姉ちゃんが一人でいてはかわいそうだと。それで2つ目の願いは、「お姉ちゃんがもとの世界に帰れるように」ということにするんです。お姉ちゃんは「また必ず会えるよ」と12歳の妹に言って戻っていくんですね。それで、最後の花びらには「お姉ちゃんがいつでも笑顔でいられますように」と願う。それで3つの願いを叶えたと。この物語を読んで、彼女はお姉ちゃんのことをしまいこむ心の引き出しを見つけたんじゃないかと思いました。子どもたちは自分たちの宝物を学習机の引き出しにしまいますが、会いたいときは引き出しを開ければいつでも会える、いつでも思い出せるわけですね。ですから「心の復興」というのは、悲しい出来事をストーリー化することによって、心の整理をしていくんじゃないかと。もう一人、東松島の86歳になるおじいさんを取材しているんですが、野蒜地区に住んでいて、この地域は津波で壊滅でした。地震が起きた後、奥さんと一緒に安全な内陸まで逃げたんですが、奥さんが次男から預かった犬を忘れてきたと言って戻ってしまった。それで今も行方不明なんですね。「あの時女房の腕を握りしめて離さなければ、こういうことにならなかった」と涙ながらに話すんです。でも時間が経つに連れて徐々に現実を受け止めてきたのか、般若心経を覚えたっていうんですよ。70代後半になってから覚えた200字以上を、私の前で唱えてみせるんです大きな声で。おじいさんは毎日起きると、奥さんにご飯をあげて水をあげて、般若心経を唱えてから一日を始めると。さきほどの女の子はストーリー化することによって自分に起きた出来事を整理していた。86歳のおじいさんは般若心経を通して天国にいる奥さんとつながる方法を見つけたんじゃないかと。それぞれのやり方で、天国にいる大切な人とつながる方法を見つけることで、心を回復し、傷を癒やしながらこれからの人生を歩んでいくんじゃないかと思います。『咆哮』にもそういう場面がありましたよね。

 

三國 今すごく、次の作品に向けてよい物語をいただきました。被災地には本当にいろんなドラマがあるんですが、それをまた演劇として伝えられたらと思います。

 

武内 『咆哮』は伝承演劇というジャンルだと思いますが、私の取材では、昨年、一昨年あたりから被災者の方々のメンタルがまたちょっと落ちてきたかなと。眠れないとか、そういうことを聞くようになったんです。昨年、県内の大学が復興住宅で実施したアンケートがあったんですが、多くの人が不眠などの症状を持っているそうです。心の復興というのは10年で区切るものではないし、むしろこれから、本格的に回復してく時期を迎えるんじゃないか。それを代弁する方法として、演劇は大きな存在になっていくんじゃないかと、今回の作品を見てそう思いました。

 

三國 すごく責任を感じます。武内さんとの出会いをいただいてからもう30年くらいになるんですが、石巻は「文化不毛の地」と言われ続けてきました。震災が起こる前から、私はずっと演劇人として、石巻日日新聞社をはじめ、地元の新聞社さんにずいぶん応援してもらいました。だからここまで来れたと思っています。演劇はメディアとは違うけれども、震災を伝え続けたいと思いますね。

 

矢口 大切な人を亡くされた、その人とつながるために物語が力を持つんじゃないかという武内さんのお話は、演劇をやっている者として私も希望を感じました。

 

 

石巻の文化を耕し続ける

(劇団うたたね.<ドット>『咆哮 <私たちはもう泣かない>』 2021年2月 撮影:岩渕隆)

矢口 最後に、三國さんに今後のビジョンについてお聞きしてもよろしいですか?

 

三國 仙台からオファーがあって、今日こうして再演させていただけたことは私達には大きな進展でした。こうやって一歩前に進めたことで、これから先も物語、ドラマをいろんな形で伝え続けていければと思います。震災で劇場が無くなってしまった石巻に、やっと来月、ホールのある複合文化施設がオープンします。それを市民のみんなと喜び合って、私たちの地元の話を伝えたいと思って、来年の2月末に会場をおさえました。『咆哮』のドラマをもっと広げて前編後編とつなげて、日常があって大きな悲しい出来事があって、だけど負けないという、心の復興を描いた大舞台を市民のみんなと一緒に作っていけたらと、着々と粛々と考えています。

 

矢口 武内さんからも、一言お願いします。

 

武内 さきほど三國さんから「文化不毛の地」という言葉が出ました。ある作家が遺した言葉が、町を卑下するように石巻で使われてきたんですが、私は取材してきて、石巻は文化不毛の地ではないと思っています。ただ、耕してこなかった感じがするんです。石巻には文化的なもの、そして宝物がいっぱい埋もれています。それをどれだけ掘り起こして地域社会に知ってもらうかが、38年間記者をやってきた私の一つのテーマでした。その途中で1000年に1度と言われる震災に遭遇してしまいましたけれども、被災を受けてまた新たな石巻の文化をどのように築き上げていくかではないかと。今、毎年のように被災地が増えております。震災だけではなく、異常気象による被災地ですね。大きな災害があると、街はどうなって、そこに住む人たちはどうなるのか、そしてどのように回復していくのか。それを発信し続けることが、震災直後にお世話になった全国のみなさんへの恩返しにもなると思います。演技は生で見るのが一番ですが、今は新型コロナウィルスの影響でZoomなどを使った配信のしかたも出てきております。そういうものを活用して伝えたいことを配信する方法もあると思います。あれだけの災害を味わった人間としては、とにかく命さえ守れば、10年経つとこうやって働けるし、演劇もできるようになるんだよと。だからもし災害に遭ったら命だけは守ってくださいと、そういうメッセージもこれから伝えていきたいと思います。そして三國先生には、演劇を通して被災者の心を発信し続けていただきたいと思います。

 

三國 私は本当に演劇しか知らなくて、何のお役にも立てないと思ってきましたが、今日改めて、力強い味方との出会いをたくさんいただいたと思っています。一歩一歩ではありますが、自分ができることをできるように、そして心をこめてやっていきたいと思っています。

 

 

 

(2021年2月7日)

(構成・編集:谷津智里)

シア・トリエ『キル兄にゃとU 子さん』アフタートーク

シア・トリエ『キル兄にゃとU 子さん』アフタートーク

仙台舞台芸術フォーラム

シア・トリエ『キル兄にゃとU子さん』アフタートーク

登壇者:大信ペリカン、生田恵、萩原宏紀

 

70年代生まれの東北の劇作家

(「キル兄にゃとU子さん」2021年 撮影:岩渕隆)

萩原 今回『キル兄にゃとU子さん』が、2011年6月の初演から約10年を経て再演されました。ペリカンさんと生田さんは震災前からお知り合いだったんでしょうか?

 

生田 確か99年頃だと思うんですが、日本劇作家協会東北支部のイベントで「70年代生まれの東北の劇作家たち」というトークイベントがありまして、その時にペリカンさんに仙台に来ていただいて、そこでトークをさせていただいたのが最初ですね。 

 

萩原 99年だと今から20〜21年前で、まだお2人とも20代の頃ですよね。ペリカンさんはその頃から仙台とはご縁があったんでしょうか?

 

大信 その直前に、うちの劇団で仙台公演を1回やったんですよ。それを生田さんが気づいてくださって、福島にも同年代の70年代生まれの劇作家がいると知ってもらえた感じでした。

 

萩原 私自身はもともと大阪の生まれで、いわきアリオスで務めているのは2012年からなんですが、記憶をたどると、2008年くらいに大阪の精華小劇場で三角フラスコさんの作品を見せていただいたのを思い出しまして。当時、90年代後半から2000年代にかけては、大阪公演なんかも積極的にされていたんですよね?

 

生田 劇団を結成した時、当時のうちのプロデューサーが「劇団というのはツアーに行くもんだ」と言い出しまして、3年目くらいからツアーに出ていました。東京と大阪に行っていたんですけど、大阪の方に非常によくしていただいて、続けて見ていただいたり応援していただいたので、大阪には欠かさずに行っていました。

 

 

『キル兄にゃとU子さん』の10年前と今

 

萩原 『キル兄にゃとU子さん』もかなりあちこちで上演されていますね。

 

大信 2011年の6月に東京で初演して、その後、秋に仙台と横浜でやって、翌年くらいからはリーディングの形なんですけど青森の県立美術館でやったり、横須賀でやったり、北九州芸術劇場の役者さんと一緒にやったり。ドイツの劇団がやってくださって、次の年に我々もドイツに行って上演したり、自分の作品としては珍しいくらい再演をしている作品で。言い方がいいか分からないですが、恵まれた作品でしたね。

 

萩原 東日本大震災後、一発目の作品ですか?

 

大信 一発目も一発目ですね。2011年の3月に震災がありましたけど、その前に、6月にフェスティバルに参加するために公演をやることは決まっていたんです。タイトルも決まって、作り始めていた時に震災があって。震災後って、演劇関係者はみんな一度心が折れたじゃないですか。やるかやらないかからみんなで相談して、やろうということになったら今度は「震災を取り上げるのか予定通りいくのか」を話し合って。「やっぱり震災を取り上げたい」ということになり、でもスッとはできなくて、パンフレットにも書いたんですけど、絞り出すように作った作品ですね。

 

萩原 最初に予定していたのとは全く違うものになりましたか?

 

大信 震災が起きた時にはまだほとんど書いてはいなかったんですけど、「新聞屋の息子が街中に新聞を散らかしている」という設定は、もとは古本屋の息子の予定でした。古本屋の息子が散らかした古本の切れ端から物語を紡いでいこうかなと、ぼんやり考えていました。

 

萩原 生田さんは初演をご覧になったとのことですが、約10年ぶりに見ていかがでしたか?

 

生田 当時見た時はすごく怖くて、テンパったことを覚えているんです。劇中に振動音がありますよね。あれにもダイレクトに感情を揺さぶられたし、舞台上に降り積もってくるものが放射能だと思っていて、すごく「怖い」と思ったのが印象として残っています。でも今回10年ぶりに見て、そうじゃなかったんだなと。演出も変えられているとは思いますが、報道に埋もれて、飲み込まれて、切り刻まれてしまった人々の生活、そこに生きていた一人ひとりをちゃんと舞台上に存在させていたんだと。ペリカンさんにしか書けなかった作品だと思います。それと同時に、報道の被害に遭っているみたいな部分に関しては、自分にも責任があるような気がしてしまって。他人事としてとらえているつもりはないんですけど、いつの間にか加害者になっていたんじゃないかと思ったりしました。でも最後、めちゃくちゃ復興しようとしてたじゃないですか。それがものすごく逞しいなと。こんなに切れ切れにされて、埋もれさせられて、でもそこからバカみたいに元気に立ち上がろうとしている、その情熱にすごくグッと来てしまいました。

 

萩原 何度も再演している作品ですが、脚本は変えているんでしょうか?

 

大信 今回少しだけ変えましたが、それまでは変えなかったです。

 

萩原 生田さんから10年前と今回の差異についてお話がありましたが、それは意識して仕掛けているものですか?

 

大信 今回、初演と演出を変えたのは、初演では最初から島の上に建物を並べておいて、年表を読み上げながら過去を振り返って確認するような形だったんですね。それを今回は、街を作り上げていく過程に合わせて人形を並べていって、震災でそれが一度おじゃんになって、それが復興していくという演出にしたんです。たぶん、初演の時にはそれはできなかったというか、思いもつかなかったはずです。その時は、まさに壊れた瞬間に自分がいて、これからどうなるか全くわからない状態だったので。最後に歌うところは台本には「立ち去らない行進曲」って書いていて、福島にみんなでエールを送るような感じで歌っていたんだけど、10年経つと何かしら現実においても復興は進んでいて、福島の人たちが10年間頑張ってきた、そのことも作品にしたかったんです。

 

 

10年が変えたもの

(「キル兄にゃとU子さん」2021年 撮影:岩渕隆)

萩原 お二人は、震災からの10年とその前の10年で、劇作家としての変化はありましたでしょうか?

 

大信 さっき話が出た「70年代生まれの演劇人」というトークショーには、ほかに当時仙台にいたサイマル演劇団の赤井康弘さん、盛岡の劇団よしこの大沼由希さんがいて、本当にそれぞれが各地で頑張っていたんですよね。生田さんの三角フラスコもものすごい数の公演をしてたし、僕らもあちこち公演しに行ってた。私自身が演劇をやる上でのテーマは、何か自分のスタイルを見つけ出すことで、まだ見つかってないんですけど(笑)スタイルを探す作業を若い時にむちゃくちゃ積極的にやってた。だからうちの作品は毎回違うことをしてる感じがあって、それは今でも失われてない気がするんですけど。震災のせいかわからないけど、最近「いいもの」ってすごくわかりやすくなっていて、もしかしたら自分自身のスキルが上がったのかもしれないけど、何をどうすればどうなるかわかってきたような感じがするんです。でも、逆にそれに「乗っからないぞ」と、今回の作品で思いました。

 

萩原 いわゆる王道というか、こうすればお客さんがウケるだろうとか、楽しめるだろうということはあえてやらないと。

 

大信 そこに行っちゃいかんということに気づいたわけです。僕自身、この作品をずっと見てきましたが、昨日、お客さんが入っている状態でもう一度マジマジと見て、あらためて「この作品は売れはしないな」と思ったんです、売れるか売れないかで言ったら(笑) でも自分はこの「売れない作品」を作る方に行こうと思ったんです。

 

萩原 「売れない作品」を自由にやれる豊かさ、みたいなこともありますよね。生田さんには変化はありましたか?

 

生田 さっきペリカンさんもちょっと言われましたが、うちは本数ばっかりいっぱいやってた劇団だったんですよ。若い頃は勢いでやっていた部分があって。震災の後の2012年に長男を出産しまして、それ以降は子育てをメインにしているので、ペースがゆっくりになっています。子どもと接する中で「伝えたいことははっきり言わないと伝わらないんだな」とわかったりして、少しずつ変わっていったかなと。生活の中で感じるものが変わったので、最近の作品と以前の作品とは違うとは思いますね。昔は他人とわかり合えないことが出発点で、わかる人がわかればいいみたいな、突き放している部分もあったと思うんですけど、今はわからないからこそわかりたいというか、わかってほしいというか、そういう気持ちが昔より強くなったように感じています。

 

萩原 お子さんを出産されたのが転機になっていると。今は活動をゆるやかにされていますが、三角フラスコの活動はこれからも続けていくのでしょうか?

 

生田 うちは代表がのんびりしているので「その時々にやれること、今やりたいって思うことをやっていこう」なんて劇団内では話しています。

 

萩原 そういうのは地方の演劇の一つのあり方というか、魅力かと思います。東京で劇団をやっていたら、次々に公演を打って、次々に劇場も大きくして、っていうように、何かに追われながら続けているところがあるけれども、地方の場合、売れなかったとしても自分たちのやりたいペースに合わせてやっていけるのは、先ほども少し触れましたが、地方の演劇の豊かさかなと思います。
どうなんでしょう、「2011年の前後でどう変わったか」という切り口ってあると思いますが、実際に10年を振り返ってみて、変わったことがあるのか、逆に無いのか。

 

大信 どうなんですかね。僕自身はわからないところもあって。ただ、震災当時のインパクトはすごくあったわけですよね。それでこの作品が生まれた。今、この状態でこの作品が生まれるかというとやっぱり生まれないので、その瞬間瞬間の空気のようなものはあるなと。ここ1年の新型コロナウィルスへの不安というのもやっぱり大きいと思うんです。特に1年くらい前のただならぬ不安、社会に気持ち悪い空気感が漂っていた感じは、震災の時とちょっと似ている気もして、さっきの公演を見ながらコロナのことも考えたりして。ただそれが物事を変えるかというと、そこまではまだ整理がつかないですね。

 

生田 震災の時って一度全てが壊れたんですよ。感情も思考も生活も全てが壊れてバラバラになってしまって、そこから考えたり、ものを作り出すことが一度全部できなくなってしまって。そこから一つずつ丁寧に拾い上げる作業を積み重ねていって、ようやく自分自身も回復してくるプロセスがあったと思うんですね。それを境に何かが劇的に変わったということではないんですけど、一度傷ついてしまったものを作品作りを通して少しずつ回復させていった。その始まりが震災という出来事で、今の私達はその続きでしかないので。今というのは、必ずどこかの時点の続きの未来ですよね。ずっとつながっていることは感じるんですけど、震災の前後で、すごく変わったという感じではないかもしれないですね。

 

 

「自分に起きたこと」を描く

 

萩原 ペリカンさんは福島の作家で、生田さんは仙台の作家で、同じ2011年3月11日を語る時に、同じ土壌で語れない部分があるのではないかと思います。つまり原発のことなんですけど。同じ震災で、津波の被害はどちらもありましたが、原発のことがかなり福島を特殊にしている部分はあって、それにより10年という時間の流れ方が違うのかなという意識があるのですが、お互いの作品を見て何か感じる部分はありますか?

 

大信 僕は生田さんの作品を見て、僕の作品と似ているかもしれないと思いました。2人とも「自分に起きたこと」を書きましたよね。そこは似ているかなと。この作品を作る時に思ったのは、これをやったら「福島は危ない」と思われるんじゃないかと、それがすごく心配で。危ないかどうかはわからなかったし、今でもわからないんだけど、風評被害なのか実被害なのかもわからない状況で何かしら話題を作ってしまうのが嫌でした。原発事故を描くにあたって、僕自身は原発に対する主義主張は持っていなかったしそういうものを出したくもないと思ったんです。でも一つ思ったのは、この事故が起きてしまったことに自分も加担してしまっているなと。それは描きたいと思ったんですよ。姿の見えない「U子さん」に当事者性を問いかけるような作品にして、俺自身もU子さんなんだよ、ということも含めて提示したかった。だから、僕も生田さんも震災を外から捉えてはいなくて、渦中で自分がどう感じたかという、自分の立ち位置を示すことにチャレンジしたところは似てるかなと思いました。

 

生田 そう言われると納得です。当時私たちは、自分たちで公演を打つことはとてもじゃないけどできなかったので、他の地域の方に呼んでいただいて上演していたんですね。呼んでもらって行くと、横浜とか大阪の人もなんとかして書こうと立ち上がって作品を作ってくださっていたんですけど、彼らがやっていたのは「外から見た震災」だったと思うんです。そこには、外にいるしかない葛藤とか苦しさみたいなものもあって、それは私の作品には無かったと思います。私自身の中にも「被災しました」と言っちゃいけないんじゃないかという葛藤はありました。うちは内陸部で、大きな揺れは感じましたけどそれ以外の被害は無かったので。でも、同じ地域の中で震災を経験した人たちに寄り添いたいと思って、作品を作っていたんですけれども。遠くにいた人たちは「自分が震災のことを書いちゃダメなんじゃないかと葛藤した」と言われる人もいました。

 

萩原 遠くの人が書いたら嫌な気持ちはありますか?

 

生田 それはぜんぜん無いです。でも、外の人はそういう意識を持っていたみたいです。最初、そこを乗り越えるのがすごく大変だったと聞いたことがあります。

 

 

試行錯誤を続ける

(「キル兄にゃとU子さん」2021年 撮影:岩渕隆)

萩原 シア・トリエとしては未来に向けての野望はありますか?

 

大信 今、地元にアトリエを作っておりまして、4月あたりにオープンしようと思っているんですが(※コロナ禍により延期。5月にプレ・オープン企画を実施予定)、そのこけら落としはこの『キル兄にゃとU子さん』でいこうかなと思っています。すごく狭くて、ソーシャルディスタンスを保つと8人くらいしか入れないんじゃないかな(笑)これからコロナ禍がどうなるかわかりませんけれども、末永くそこでやっていきたいなと。これまで出会った人たちとのネットワークというか、縁が各地にできているし、仙台のトークショーで出会ったサイマルの赤井さんの劇場でこの作品は初演を迎えているし、そういう縁のあった人たちが福島に来て公演していただけたらいいなと思っています。名前は『ATELIERブリコラージュ』といって「ブリコラージュ」は「試行錯誤」という意味なんですけど、福島の劇団もここで試行錯誤しながらいろいろ作品作りしてほしいという思いをこめて、今、試行錯誤しながら作っています。

 

萩原 本当は去年オープンする予定だったんですよね。コロナ禍の状況を見ながらというのもありますが、出来上がったらぜひみなさんにも注目していただけたらと思います。
最後に客席からも質問をお受けしたいと思います。

 

客1 男性の出演者が櫛を持って何度も髪をかき上げてポーズをとるのがすごく印象的でした。あのポーズにはどんな意味があるのでしょうか。

 

大信 あのポーズは実は今回作ったんですけど、今回のリクリエイションのテーマとして、3人のキャラクターづけを以前よりハッキリさせたかったんです。3人それぞれがそれぞれのU子さんを探しているのがすごく大事で、その3人が最終的に多くのU子さんに祈りを捧げる作品にしたかったので、三者三様にしたかったんです。一人ひとりにキャラクターがついていて、男はまだ見ぬU子さんに惚れていて、U子さんに会いたくておめかししている。チケットが欲しい人は、U子さんととにかく電話でつながりたい。もう1人は、幼い頃につないだ手の思い出でU子さんとつながっているということで、それぞれのキャラクターを抽象的に表現しようと思って。だから男については、おめかしをしているポーズでキャラクターを表現しました。

 

客2 舞台中央の島のようなものを吊っている糸はなぜ赤なんですか?

 

大信 これは僕の好きな色なんです(笑)オレンジなんですけど、僕は舞台美術もやるので、島の緑との補色を狙っているのもあります。特に意味は持たせていなくて、黒バックで何が一番映えるかという、ビジュアル的なところでやっています。

 

客3 震災前に仙台で劇場に務めていました。この作品は劇場が復興して行く過程でもすごく大事な作品だったと思うんですが、10年の重さみたいなものはどう感じていらっしゃいますか?

 

大信 作品のことを考えると、本当に10年て大きいなと思うんですよね。単純な話、嵐もいなくなったし、mixiもなくなったし、新聞記事の一つ一つに出てくる年齢が10個変わっている。中には生きているかどうかという方もいる。そういう10年の重みはすごく考えながら作っていきました。10年自分は何をしていたかとか、演劇の作り方がどう変わったかは整理がつかないんですけど、作品を作ることで10年を振り返ることができたのはいい経験でしたね。振り返るきっかけになったし、視点を与えてもらうことができた。それと、10個年をとって10年演劇の経験をした自分が過去の自分にダメ出しをしながら作っていく作業も、作り手としてはすごく面白かったです。

 

萩原 再演というと簡単そうに聞こえるけど実は意外と難しいですよね。10年再演できる強度のある作品って、一生のうちに何本も作れないと思います。

 

大信 そうですね。役者も、やりながら当時と同じ気持ちが湧き上がって来ているようなことはありましたが、初演の時はその時の自分の生の感情でいけたところが、10年経つとさすがにできないので。そこは理詰めで作っていきました。

 

生田 私からも一ついいですか? 初演が2011年の6月ですよね?それまでの間どうしてたのか、実はすごく聞きたかったのを思い出しました。うちは4月にC.T.T.の仙台事務局の方に誘っていただいて、特別試演会に参加したんですけど、それをUstreamで見ててくれたんですよね、ペリカンさんが。あの時は私、本当にセリフなんて書けなかったので、俳優がただ立って動いてるところから断片をつないですごく短い作品を作ったんですけど、その中に、誰もいない荒野に町内放送が流れるシーンがあったんです。そこで無意識に使っていた曲を、Ustreamを見てたペリカンさんが「新世界だ!」って言ったのを、今、すごく思い出して。「ああ、ペリカンさんが見てくれてるんだ」とすごく感動したんです。その時、ペリカンさんが福島でどうしてたのかを、当時すごく知りたいと思ってたんです。

 

大信 その頃はUstreamを見るくらいしかできなかったんです。3月はほぼ記憶がなくて、4月になってようやく舞台みたいなものに触れたいと思って、その時たまたまC.T.T.のUstreamの配信があったから見て。そこにドボルザークの「新世界」が流れて、自分としてはすごく勇気をもらって。仙台のみんながやっていることにも勇気を受けたし、作品から流れる曲にも勇気を受けたし、それで自分もやってみようというところにいけたと思います。

 

 

(2021年1月31日)

(構成・編集:谷津智里)

「仙台舞台芸術フォーラム」プレトーク 屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』

「仙台舞台芸術フォーラム」プレトーク 屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』

仙台舞台芸術フォーラム プレトーク

屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』

登壇者:中村大地(屋根裏ハイツ主宰・作・演出)、山内明美(宮城教育大学 准教授)

 

『とおくはちかい』の制作背景

(「とおくはちかい(reprise)」[2020年 撮影:桐島レンジ])

中村 この『とおくはちかい(reprise)』という作品は、2017年に作った『とおくはちかい』という作品からタイトルと設定をもらって、中身は全部書き換えてあります。今日は、2017年にこの作品を作ろうと思ったきっかけと作品の概略を最初にお話して、山内さんに応答していただいて進めていきたいと思います。
僕は2010年に仙台に来まして、「屋根裏ハイツ」という劇団を2013年に旗揚げしました。生まれは東京で、2018年に実家に戻って、今は東京で暮らしています。
東日本大震災を題材にして作品を作ったのは『とおくはちかい』が初めてで、きっかけは二つあります。一つは2016年に仙台であったトークイベントです。震災をテーマにした写真展のオープニングトークだったんですが、東京から来たゲストの方が話していた時に、物言いがちょっとその場から浮いて見えたんですね。そのことを東京の友人に話したら「東京ではむしろ、被災地の側にいる人の言葉がその場の空気となじまないことがある」と言われ、衝撃を受けました。もうひとつは、僕自身、震災直後のタイミングで、沿岸部にボランティアに行かなかったことをすごく後ろめたく感じていたということをしばらく誰にも言えなくて、ようやく話せるようになったのが5年くらい経ってからだったんです。それで、自分は5年だったけど、だったら10年とか、時間が経ってようやく話し始められる事があるんじゃないかと。また、当事者性というか、被災の中心地からの同心円のどこにいるかによって、言語化する速度や記憶の仕方みたいなものが異なるのでは?と思ったんですね。それも、この作品を作る動機になっています。
初演の時は「地震」とは言わずに、すごく大きな火災が起きた街という設定で脚本を書きました。その時は、「地震」と言うことで見ている人の頭に3月11日が想起されてしまうと、作品に集中できなくなると思いました。でも、2016年の年末に糸魚川でものすごく大きな火事(糸魚川市大規模火災)があって、さらに2017年の公演の直後に九州で豪雨災害(平成29年7月九州北部豪雨)があり、それから毎年のようにいろんなところで災害が起きて、書き換えた意味があんまり無いと思ったんですね。僕自身が今は東京にいることもあると思うのですが、今回はそのまま地震の話をした方がフェアではないかと思い、改めて地震の話として新しく書きました。
今回の出演者のうち一人は当時荒浜(仙台市)に住んでおり、けっこう大きな被災体験をしています。もう一人は山形に住んでいた人なんですけど、その二人の体験を聞きながら作品をつくっていきました。そういう経緯で、今日ご覧いただく作品があります。

 

演劇にすることは「未来語り」にすること

 

山内 中村さんも今おっしゃいましたが、この10年を振り返っただけでも、もちろん震災もあったし、世界中でもいろいろありましたよね。ジェンダーや性暴力の問題、戦後最大の障害者殺傷事件(相模原障害者施設殺傷事件/2016)もありました。ものすごく衝撃的な事件とか災害がたくさん起きていて、今はもう、誰もが何かの当事者なんだと思います。当事者から周縁、さらにその向こう側と、距離があることで摩擦が生じて、たくさんの人が傷ついていると思います。中村さんがボランティアに行かなかったことに後ろめたさを感じたみたいに、立場性がものすごく複雑にあってこの社会を作っている。
この作品では二人の人物が静かに対話しているんだけれども、すごく隔絶しているんですよね。隣同士にいてもものすごく距離がある。遠くて近いんです、本当に。考えることがたくさんある作品だと思いました。福島の中には、帰還困難区域でこの9年間ずっと入れない場所もあるし、その一方で、復興拠点になってまちづくりが進んでいる場所もある。一つの行政区の中でもグラデーションがあって、本当に近くて遠い状況が起きている。そこで共通言語を話すことは不可能に近い。言葉は語れないし、消失していくだけです。
演劇とかアートの役割は、多分これからなんですよね。三陸沿岸部でもいろんなアートイベントをやっていますが、みんな葛藤を抱えています。「こんなことやっててどうなるんだ」とかね。先月、美術批評家の方とZoomでお話する機会があったんですけど、その方は「災害の時にコンテンポラリーアーツなんて役に立たない」ときっぱり言っていました。でもね、これは語り部の人たちもそうなんだけれども、ある意味で予言者にならざるを得ないわけですよ。広島とか長崎のことが75年して風化していくみたいなことが言われているけれど、過去を語る言葉は未来の予言の言葉なんだと思うんです。たぶんこの先また戦争も起こるし、かなりすぐに地震は起こりますよ。津波もまた来ることがわかっていて、私たち、それに備えて練習しなくちゃいけないわけですよね。未来の言葉を獲得しなくちゃいけない。世界が崩壊して衝撃を受けた後に何も言えなくなる、何も作れなくなるのは当然のことで、けれどもこれから10年20年、まだまだ作っていくことはできる。私自身、東日本大震災で起きたことの全容を把握するなんて到底無理だし、三陸沿岸部を見ていても、今でもずっと津波を受け続けているような、何も止んでいない感じもするわけですよ。とても回復したと言えるような状況じゃない。えらく時間がかかるんですよね。いろんな歴史資料を見ていても、大きな飢饉があって村がほとんど全滅状態になって、もう1度村を立て直すとなると100年くらいかかるわけですよ。それだけの出来事だったんです。

 

中村 2015年か2016年、僕は東北大の6年生とか、そういう感じだったと思うんですけど、全国の旧帝大の運動部が集まって試合をする「七大戦」というのがあって、東北大が主幹校になったんです。その開会セレモニーで、交響楽団は葬送歌みたいなものを演奏して、演劇部も何かできませんかと言われたんですが、僕はそんなセレモニーのようなところで震災のことを言語化したくないと思ったんです。それで、3月11日の写真を映して「これは1896年に起きた三陸海岸大津波の写真です」と言ったんです。東日本大震災のような災害はまた来る。そう思っていた方が、言い方が正しいかわからないですけど、安心感があると思った。もちろん二度と来ないで欲しいけど、どうせ来るなら、もう一度起こると思っていた方が安心できると思った。それを今、思い出しました。

 

山内 過去の記憶が失われることを「風化」と呼んで、みんなすごく恐れている気がするんですが、でも、それを今に固定するのではなく未来語りにしていくことが、演劇とか、アートとか、語り部の仕事、役割だと思います。中世辺りの占い師もおそらくそういう役割ですよね。そうして人は生きてきたんだと思います。

 

中村 ただ、演劇ってすごく生で。今は映像での配信もあるけど、それはやっぱり別物で、生で同時代に立ち会うのが演劇だといった時に、ある種の心許なさというか、弱さみたいなものを感じる部分はあります。ネガティブに思っているのではなくて、それが好きでやっているんですけど、本当に少人数の人しか立ち会えない。大きい時間軸でとらえた時に、メディアとしての演劇の心許なさみたいなものを感じることはあります。

 

 

『とおくはちかい』の対話スタイルはどのように生まれたか

(「とおくはちかい(reprise)」[2020年 撮影:桐島レンジ])

山内 今回の『とおくはちかい(reprise)』は2人の対話形式で進んでいきますが、あれは昔からのスタイルなんですか?

 

中村 いえ、『とおくはちかい』の初演で初めてやりました。それまではお客さんに向かってしゃべったりしていましたね。制作秘話的な話で言うと、初演の台本を書く前に二人の役者とプレ稽古をしたんです。3日間毎日8時間、全部で24時間くらい。プレ稽古では、一人がもう一人の家を訪ねてきた設定で二人でダラダラしゃべってもらう、ということをしました。その雑談の最中にたとえば、「3月12日の朝、何を食べましたか」とか、そういった質問を傍から見ている僕が投げ込んで、それを餌にしてただ二人でしゃべってもらう。初演は男性ではなく女性の役者が二人だったんですけど、その二人の会話を見ながら、「けっこう見ていられるぞ」と思った。ずっと見てられる退屈さというか、退屈だけど1時間くらい見てるとめちゃめちゃ面白くなってくるみたいな。そこですごく手応えを得たので、それを戯曲に落とし込みました。
それから、そのエチュードではちょっとしたルールを設けていました。まず一方が、自分が過去に本当に体験したことをしゃべって、もう一方がいろいろ質問したりする。次に、聞いていた方の人が、さっき聞いた話を自分が体験したかのようにコピーしてしゃべる。それに対して、今度は話の元ネタである側が質問をするんですが、答えられない時は黙っていていいことにしたんです。わからないと思ったら、嘘はつかなくていいと。それで、一人が「震災の時に停電の中で家族でご飯を食べた」みたいな話をして、それをもう一人がコピーして話して、質問された時に答えられなくなったんです。黙っていいと言われても、役者は何かしら言語化しようとしちゃうんものなんですけど、本当に2分くらい黙っていた。その時間は何も考えていないわけじゃなく、すごくいろいろ考えて、お互い探り合ってて、雄弁な沈黙でした。そういうワークショップを経て、偶然生まれたのが「とおくはちかい」の上演スタイルです。

 

山内 それはお芝居で、ある程度方法を設定してやっているからできることかしら? 私たちの日常でも、全く違う体験をしている人同士が話をするって、すごく多くなっていると思うんですが、そういうことって日常でもできるでしょうか。

 

中村 稽古場という状況がそれを許していると思います。演出家と俳優というのは、ある種の安全性を確保することは絶対に必要ですが、その上で演出家がこれをやってほしいと言ったら俳優がそれをとりあえず実践してみる、という関係性が成り立っている。演劇じゃなかったり、俳優じゃなくても、コンセンサスが取れていればできるんですけど、ファミレスではできないですよね。稽古場というのは、そういう負荷を与えても大丈夫な状態にある。そうでなければ、2分黙るとか、震災の体験談をコピーして語るようなことは要求できないですね。

 

山内 ある種の暴力性があって成立している。

 

中村 それは構造上絶対に生じるものなので。俳優にストレスが起きないように努力はしていますけれども、演劇の現場にはそういう構造が絶対にあると思います。

 

 

「役に立つ」演劇

 

山内 最近、シングルマザーの友達が3日に1回、電話をよこすんです。昨日も2時間くらい話をして。彼女は外国人で、震災の前に日本に来て、博士論文を書いたすごく優秀な人です。子どもは日本語しか話せなくて、永住権を取ろうと思ってる。でもそれには、納税義務とか、超えなくちゃいけない壁がいろいろとある。正規雇用されていないとダメなので、今、会社で仕事をしているんですが、会社の中で辛くあたられているんですね。そのストレスで、このところ私に電話をかけてくるんです。だけどやっぱり、このお芝居みたいな対話ってなかなか成立しにくくて、聞いている側もいっぱいいっぱいになってきてしまうんですね、3日に1回、彼女のストレスを丸かぶりするようなことになると。でも彼女は、今ここで頑張らないと永住権が獲得できないから、なんとか喧嘩もしないようにして、這いつくばって生きている。そういう人が、多分すごくたくさん、この国にはいる。「あなた、私の気持ちわかる?」って彼女が言うんです。ちょっと状況が違うだけで、そのしんどさは当事者にしかわからないんですよね。どんなに近くで話していても、友達でも、壁がある。そういうことが今、蔓延している状況になっている。完全に理解しあえるなんてことはありえないと思いますが、なにかお芝居というものにヒントがあるような気がしています。

 

中村 このお芝居では、実際の経験を語り合う稽古は踏まえているけれど、テキストは僕が創作しているのが大きいかもしれません。おっしゃるように、完全には理解できない相手と話をする時に、相手の感情にどう触ったらいいのかを探り合うみたいなことって、日常ではできないじゃないですか。僕も日常であれば、もっとすぐに怒っちゃったりするし。あんなに淡々と、周りだけをさわるようにしゃべるって本当に難しくて。でも演劇の世界では、台本を通過することで、実際にそういう会話をするためのレッスンじゃないけど、良いサンプルみたいなものを提示できるというのは、ある気がします。そういう意味で役に立つというか、サンプルを眺めるみたいに使えるなというのは、ここ数年思っていることではあります。理想的でちょっと非現実的な会話を眺めることで、手触りを確かめてもらうような。

 

山内 中村さんはよく「役に立つ演劇」とおっしゃっていますが、そういうことを言う人はめずらしいですよね。もう少し上の世代の人には怒られそうです。

 

中村 7年くらい言ってるんですけど、もうちょっと違う形で言語化した方がいいとも言われます。「役に立つ」というのは、単純に便利だとか、感動するとか、そういうことじゃないんです。現実のオルタナティブというか、現実とは違うもう1本の線みたいなものをフィクションは書けるわけで、ああいう会話を見ることがある意味役立つだろうということなんですけど。僕もあまりうまく言語化できていない感覚はあります。

 

山内 私、実は若い頃に演劇に挑戦したことがあるんです。10代の後半から20代の頭ぐらいまで、寺山修司にかぶれていたんですよ。90年代に日本文化デザイン会議が青森県で開催された時に、天井桟敷を一日だけ復活させるというので市街劇のキャストを募集していて、オーディションを受けに行ったんです、青森まで。白塗りして、舞踏の歩行の練習とかさせられて、市街劇なので、街の中でいろんな演劇をやるんです、総勢何百人で。その時に、逮捕された女の子がいて。その子は「書簡演劇」というのをあてられて、電話帳から無作為に人を選んで、その人にストーカー行為をして、行動歴を記録してそれを毎日書くんです。それをやってた女の子が逮捕されちゃって。青森県がやった企画の一貫だったんですけどね。それで一晩留置されて、翌朝、J.A.シーザーさんという演出家が迎えに行って引き受けてきたんですよね。それは本当に役に立たない演劇だなあと。

 

中村 「役に立つ」って言っちゃうと、より実践的だったり、便利だったりというイメージが先走ってしまいますが、役に立つのはそういうものだけではないと思うんです。例えば僕にとって、『ぼのぼの』(いがらしみきお)の36巻は役立ち書なんです。ぼのぼのたちが、木が枯れちゃうからと言って見に行って、山の頂上でただ木を見てる話なんですけど、それは僕にとっては、折りに触れ読み返す「役立つもの」なんです。そういう、誰かにとってある種の支えになるようなこと。誰か一人でもそういう人がいたら、それは役に立つと言ってもいいのではないかと思います。演劇の一般的なイメージ、大きい声でしゃべって笑って泣けて、みたいなものとは対局なんですが、小難しいものをやっているつもりはないんです。見たらわかると思っていて。

 

 

地方の演劇と時代性

(「とおくはちかい(reprise)」[2020年 撮影:桐島レンジ])

山内 私が10代後半に寺山にかぶれたのは、自分の育った南三陸の村があまりに息苦しくて、法を跨ぐというか標準を超えるというか、何かもう少し広い世界があるという期待感みたいなものがあったように思うんです。一方で、寺山が演劇を作っていた時代は、日本は右肩上がりだったんですよね。いろんなことが上向きだった時代。終身雇用で所得倍増みたいな、10年後が今より良くなっていると思えた時代だったけど、今は1年先もわからない。去年の今頃は、大学が全部遠隔授業になって、毎日マスクで生活するようになるなんて思いもしなかったですよね。そういう網の目から、何人たりとも逃れることができない中でお芝居作っているというのも、やっぱりありますよね。中村さんの作品は、こういう先が読めない時代をある意味で体現する作品なのかもしれないですよね。

 

中村 寺山は寺山で、あの時代の風景に対峙するものとしてああいう形をとっていたわけですが、 僕らは閉塞感というか、停滞したり落ち込んでいくのがデフォルトの体感を持っていて、殴られて刺激を与えられるみたいなことに疲れてしまった感覚はあるかもしれないですね。

 

山内 中村さんは90年代生まれで、しかもお芝居を作り始めた時期が震災と重なっていて、大きな転換期の後に作り始めた作家の作品として見ることができますね。

 

中村 もしも震災前からやっていたら違っていたでしょうね。2010年の仙台の空気も、見に行く側としてギリギリ知ってますけど、そこから出発してはいないので。

 

山内 中村さんが仙台に来てお芝居を作る少し前って、青森だったら三内丸山が発見された後で、蝦夷をテーマにした一人芝居をみんなで見たり、今の地方創生とはちょっと違った形で、地方が自分たちの地域を勃興する雰囲気があったんですね。その後没落していく前の端境のところですよね。だからやっぱり、中村さんの制作には、そういう時代の変化をどう受け止めて表現していくのかが現れている感じがするのかな。

 

中村 演劇って不思議なもので、映画や音楽は同時代に流行っているものは全国的に共通なんですけど、舞台は共有するのが難しくて。当時、東京では平田オリザさんや岡田利規さんのような、いわゆる「静かな演劇」がもうメジャーになっていたんだけど、仙台では2010年くらいでもまだ浸透していなかった。それは仙台で活動するプレーヤーの方々の好みだったり、目指すものと「静かな演劇」とがあわなかった、というのもあるのかもしれないと思うんですけど、全体としてはもうちょっとアングラの気配みたいなものが引き続いていたイメージです。もちろん、三角フラスコのように静謐な会話劇をするカンパニーはありましたが。僕の先輩たちが震災後からやっている「劇団 短距離男道ミサイル」は、「脱いで騒いでお祭りだ」っていう感じなんですけど、そういうことの方が時間軸的には馴染んでいるような。細かい物語というよりは、奇抜さとか激しさをパフォーマンスとして出す。僕はそれもとても好きです。Theatre Group OCT/PASSという劇団だと、倉庫を全部仮設で組んで、潜水艦みたいなのが出てきて水が客席にはねるみたいな、そういうアングラのイズムというか。震災があって、子どもたちにアウトリーチをしに行くなど、やる場所が変わったり、時間を経て変わってきているところもあるとは思いますけど、仙台の演劇は根底にそういうものが流れている感じがします。

 

 

自分の身体に他者を通過させる

 

山内 せっかくなので、会場のみなさんからも「遠くて近い」お話をお聞きしてみたいと思いますがいかがでしょうか。(客1)さん、どうですか?

 

客1 福島県で高校の教師をしています。演劇部で、ずっと震災をテーマにした作品を作っていました。まさに生徒の間でもグラデーションがあったので、それこそ「近くにいながら何を考えているかわからない」という状況をお芝居にしましたね。

 

山内 原発から31km圏の生徒がお話してる作品なんですよね。30kmまでの人は避難指示が出て避難したんだけど、31km圏の人は避難しなくて、それはどうなんだっていうことを高校生が話すという。

 

客1 タイトルが『緊急時避難準備不要区域より』っていうんですけど、「避難準備不要区域」というのは造語で、そのことへの違和感をあからさまに表現しましたね。

 

山内 ほんとにグラデーションだらけで。同心円の真ん中と周縁での対話の難しさみたいなものが、今回の作品と通底しているところだったように思います。

 

客2 先ほど、わかりあえない者同士で会話をすることが日常でもできるかというお話があったんですが、私はファシリテーターの勉強をしていて、先日受けた講座の中で、対立する立場をお互いに体験してみるというワークショップがありました。最初、それぞれ自分の役のつもりで会話をして、次に立場を交換して会話をするんですが、最後に、やってみてどう感じたかを話し合うワークをするんです。最初に会話のシュミレーションをした時、対立が起きてすごく悲しい気持ちになったんですが、最後に感想を話しあった時、相手の方が「逆の立場になってみて、気持ちがすごくわかりました」と言ってくださって、泣きそうなくらい感動したんです。お話をお聞きして、もしかしたらあれは演劇的な手法で「遠くて近い」会話を体験する一つの手段と言えるのではないかと思いました。

 

中村 それはきっと、対話が対立してしまう部分ではなく、それを通過した後のフィードバックの部分が、相手のことを想像して探り合うような対話になったのだろうと、お聞きして思いました。 立場を変えてしゃべることそのものは辛い、ハードな体験なんだけど、視点が違うものを自分の身体を通してみることで、確かに手応えというか、違う身体の感覚みたいなものが生まれるのではないかと。フィードバックの時間が、ある種の理想的な対話に近い状態になるんだろうと想像します。

 

山内 自分とは違う誰かを演じるということに、なんというか、とても重大なことがありますよね。こんなにも、日常の中にいろいろな分断線が引かれていたり、言葉が剥奪されていく状況の中で、演劇でそれを獲得できる可能性があるというか。

 

中村 演劇がすごいと思うのは、「ここはアメリカです」と言えばここをアメリカにできるんです。「私はリア王です」といえばリア王になれる。着飾ってもいいけど、このままの格好でもいける。もちろん、それを舞台化して見せられるものにするのは俳優さんの特殊な技能であると思うんですけど、自分の身体に他者を通過させることは誰でもできる。そうすることでしか体験できないものはあると思います。

 

山内 その時役者さんというのは、リア王だったらリア王の世界を頭の中で再構築するわけですよね。その時に、再構築するためのいろいろな要素を頭の中に書き込むんでしょうか?

 

中村 演劇が特殊なのは、その場にいるということがとても重要だということです。ここじゃないどこかの話なんだけど、でも今、ここでやっている。だから、なんていうのかな、「言えばそうなる」と思っていて。言った時に違和感が無いように、想像したりコンテクストを埋めていく作業は必要でしょうが。

 

 

被災の中心と周縁

(「とおくはちかい(reprise)」[2020年 撮影:桐島レンジ])

 

山内 今回の作品は、本当の当事者が演じているわけですが、その作用とはどういうことでしょう?

 

中村 二人の役をひっくり返すことはありえないと思って書いていました。他の芝居では必ずしもそうではないけれど、この台本に関しては、他の人がやることも想像できないし、彼らじゃなきゃできない。作中のエピソードはすべて僕が書いたもので、本人の経験は一つも出ていません。でも、彼自身が同様の経験を通過しているというコンテクストを持たないと、見るに耐えないものになってしまう。役に自分を近づけるのではなく、本人がそのままでしゃべっているような状態にまで、役の方を彼ら自身に寄せていってもらうんですが、あくまでも違う人物ではあると。
当事者が当事者のまま事実を語ると攻撃力が高すぎるというか、圧倒的に正しいものになってしまうんですよね。被災体験とか、戦争の体験とか。一対一で本人の語りを聞くのと違って、演劇という嘘の場にそのドキュメントを持っていってしまうと感動ポルノになりやすい。絶対に太刀打ちできない正しさを持ってしまう。だからフィクションにして距離をちょっと空けることが、演者にとっても見る側にとっても安全だと思っています。

 

山内 そこも、遠くて近いところですね。

 

中村 普遍化していく作業なのかもしれないです。普遍的なものを書こうとは思ってないけど、演劇の現場で起こる実際的な問題を解決していくとそうなっていくというか、本人が本人の本当のことを言う危うさを回避したいというか。演劇って、上演の度に何回もセリフを言わないといけないんですよ。そうすると、毎回本当の経験を思い出させることになる。それってすごくしんどいことだと思うんです。だから、限りなく重なってはいても別の人が書いたものにすることで、本人にとっても安全になると思っています。

 

山内 それはすごく大事なことですね。当事者が出ているけれども、演出家がきちんとシナリオを作って創作をしているということですよね。
医療人類学でトラウマの研究をされている宮地尚子先生という方がいて、災害や性暴力や、拉致監禁の被害者についても研究をされているんですけど、「環状島」というモデルを提唱されています。カルデラ湖を思い浮かべてもらえればいいんですけど、真ん中はカルデラ湖なので水が入っていて、周囲を尾根が囲んでいるんです。カルデラの底は被災の中心地で、無数の犠牲者が沈んでいるんですね。つまり、もっとも傷ついている人は言葉を発せない、もう言葉を奪われている状態なんです。 核心部分に迫れば迫るほど発声できなくて、周縁の山にだんだんと登っていって、尾根のところにいる人たちがやっと言葉を発せられる状態にあるという、そういう図があるんですけど、たぶんそういうことで、当事者の言葉は、傷つきの度合いが重すぎるがために消失してしまう。だから、そこを代わりにテキスト化する、創作を入れることで芝居にする必要があるというのは、確かにそうだなあと思いました。イタコみたいな、消失している言葉を再現する仕組み、カルチャーも東北にはあるわけですよね。中村さんの創作の核心部をうかがえたような気がしました。確かに近くて遠い。カフカみたいですよね。中心をくるくる回ってなぞっていくような。痛みをなぞりながら対話が進んでいくような感じ。

 

中村 東日本大震災に限らず、本当の中心というのは想像できなくて、周辺を触っていくしかない。 そこでようやく言葉が見つかるというか、ようやく話ができる。それは聴く側にとっても語る側にとっても同じなんじゃないかと思います。一方で、自分は社会的にはどちらかといえばマジョリティの方にいる自覚がある。核心から遠いところから話を聞きに行くしかない時に、「実際には想像できない」とか、「周縁しか触れない」と言ってしまうこともまた危うさを持っていると思います。「#Me Too」とか「Black Lives Matter」もそうですが、中心部から強い言葉を発するには、ポリシーがあってスタイルがあって、ちゃんと理由がある。それを「想像できない」と言ってしまいうることの暴力性に、日常生活の中ではちゃんと打ちひしがれていかなきゃいけないとも思っています。

 

山内 やっぱり、当事者を役者に起用しているところがポイントなんだと思います。核心部の当事者を起用しているんだけれど、その俳優が語るのは中村さんが創作した言葉で、彼自身の言葉ではないわけですよね。そこにあえてズレを作りながら、近いんだけれども遠いという揺らぎの中で、考えることをやめない、という作業をしないといけない。単純に強い当事者の言葉を受けるというだけでは、終わらないわけですよね。

 

中村 舞台にする、という、作品として不特定多数の人に観てもらうというときに、そういう作業が必要だと思います。

 

山内 中村さんが核心の言葉を聞いて、そこから自分で思考して創作した言葉で芝居を作っていった結果がこの作品だということですね。とても理解が進みました。ありがとうございました。

 

 

(2020年9月19日)

(構成・編集:谷津智里)

「仙台舞台芸術フォーラム」オープニングイベントトークセッションⅡ

「仙台舞台芸術フォーラム」オープニングイベントトークセッションⅡ

仙台舞台芸術フォーラム オープニングイベントトークセッション

「劇作家は、震災をどのように受け止めたのか」Ⅱ

出演:生田恵、なかじょうのぶ、長谷川孝治 / 武田篤彦
司会:伊藤み弥

 

【二日目】

伊藤 さて、2日目となる今日は、今回上演いただいた作品について具体的にうかがっていこうと思います。まず、初演時と今回(2020年)の上演で何か変わったことはありますか?

 

生田 『はなして』は2011年の8月に初演をしたんですが、当時は完全に一人芝居でした。その頃はまだお客さんにも強い共通体験があったので、芝居の中の言葉は非常に断片的なんですが、それがフックになって記憶を呼び覚ますというか、そういうことで成立していたと思います。物語というよりは記録に近いような形だったかもしれません。今回、久しぶりに上演をするということで、同じ脚本を物語として提示したいと思い、構成を変えました。台本は変えていないんですが、最初に2つシーンを付け加えて、そこに出てきた人たちが、その後も最後まで主人公を見守る構成にしました。

 

なかじょう 『徒然だ』は2015年に初演したんですけど、震災から1年半くらいの時期から台本づくりをしていて、思い返せば、当時はまだ「なんでこんなことになるんだ」という怒りが強かったですね。三陸の海に対して、「なんでこんな風になっちゃったの」って、「なんでなの」「なんでなの」みたいな言葉をただただ、投げかけてるような時期だったんですよ。海の青と空の青の間に、やっぱり、いるんだね、亡くなった方が。海を見てるとそれがありありと分かったんで、じゃあ、舞台に乗っけなきゃ、この人たちはどこに行くんだろうと。そういう想いを、乱暴でもいいから言葉にしなきゃいけないと思って書いていました。それを今改めて見返して、その乱雑な言葉がすごくいいなと。消した言葉もありますけど、その時の言葉は、今の自分をもう一度目覚めさせるためにもそのまま残しました。どこまでも怒っていくおじさんでいいんじゃないかと。

 

長谷川 『壊れる水』は今回、この公演のためだけにオリジナルの脚本を書きました。おそらく今後やることは無いと思います。震災後に「絆」という言葉が流行しましたが、それは一体、誰と誰の絆なんだろうとずっと思っていて。僕はそんなことに深入りはできないので、まず自分から始めようと、自分の物語を書きました。ものの書き方には、人と人の関係性を書く水平的な書き方と、自分を掘り下げていく垂直的な書き方があって、今回は後者の書き方をしました。

 

伊藤 ありがとうございます。それぞれにご自身の作品を語っていただきました。お客様も3本まとめて見るという経験はそうそう無いと思いますが、作家のみなさんも、作品をお互いに見合うという経験もあまり無いと思うので、それぞれご感想やご質問を頂戴したいと思います。まず生田さんの作品についてなかじょうさん、長谷川さんはいかが思われましたか。

 

なかじょう えーとね、やっぱり赤ちゃん出しちゃダメだよ(笑)その手があったかと(笑)あれはもう、このあと誰もできないよね、真似したって言われるし。禁じ手をクリアする手立てってあるんだなと、それだけです、はい(笑)

 

長谷川 それはやっぱりね、赤ちゃんを出すのは禁じ手ですね(笑)赤ちゃんとお母さんが舞台上にいるところから、いきなり物語に入っていく瞬間があったよね。演劇にふっと入っていく瞬間。あれはもう、何物にも代えがたいですよね。その時に「あ、俺は芝居見に来たんだ」と思う。それはとてもいい緊張感でしたね。

 

伊藤 いろいろ言われましたけど、生田さんどうですか(笑)

 

生田恵

 

生田 そうですね、あれをやりたかったんです(笑)今回すごく重要なテーマの一つで。「あの日からの続きの未来」をどうしても提示したくて、お母さんと子どもと一緒に出てもらおうって思ったんですね。私も今、小さい子がいて、以前と同じようなやり方ではお芝居を続けられなくなったんですが、同世代でやってきた仲間がやっぱり近いような環境にいて。子育て中のお母さんて面白いっていうか、すごいんですよ。だからもったいないなと。ぜひ見せたい、見ていただきたいというのもあって、「一緒に出てください」ってオファーをして。もしお子さんが熱を出したら当日ドタキャンしてもいいですって言ってお願いしたんです。ドタキャンしても、稽古で一緒にやってきたことは作品に絶対にいい影響を与えるし。どうしても役者さんは「子どもが熱を出してしまったら迷惑かけるから」と思ってしまうけど、そこは心配しないでくれって言って口説き落として。なので、できてよかったなと。これからもやっていきたいです。

 

伊藤 今日は赤ちゃんがけっこうむずかってましたが、昨日は誰もむずからずスムーズにシーンが進行していました。やっぱり日替わりなんですよね。今日、むずかった赤ちゃんに対してお客さんがすごく反応してて、いっそう舞台と客席の境界線がなくなったなと、私は感じました。
では、のぶさんの作品について、生田さんはどう感じられましたか?

 

生田 さきほど「乱暴な言葉」とおっしゃってたんですけど、私には愛おしさのようなものが強く感じられました。あんまり震災を前面に出さずに、日常があって、そこに喪失感があって。当時から今にいたるまで時間が経っているからこそなのかもしれないですけど、悲しみや怒りよりも温かさのようなものを感じて、そこが素敵だなと思って見ていました。

 

長谷川 役者が立ちながら、みんな台本のページを繰ってるよね。「台本を読んでるんだろうな」と思って見ながら、いきなり、本当はちゃんとセリフが入ってるって分かる瞬間があったらいいなと思いましたね。その瞬間を見たかった。それをやると、お客さんが「ほんとは覚えてるんだ!」ってなるじゃない。そういうのもあっていいのかなと思いました。で、相変わらずよく分からないですね(笑)僕が一番好きなのは、石川裕人がやるような大扉がダーンと開いて、バーンと花火が上がって、波がザッパーンって起きるような感じなんだけど、その大扉からがさがさがさ…って出てくる(笑)あの脱力感はないよね。あれはのぶさんにしかできない。俺にはできない。褒めてるんですよ、もちろん。

 

なかじょう ほんとに何も言い返す術もありませんし、自分自身をフォローする言葉もありませんし、温かい目でこれからも見守って欲しいと思います(笑)

 

なかじょうのぶ

 

伊藤 ありがとうございます(笑)それでは長谷川さんの『壊れる水』についてお二人はどう思われましたか。

 

なかじょう 私、弘前劇場さんには役者として何作か客演してるんですけど、わりと言葉を包むというか、ラッピングするところがあるんですよね。だけど、今日は見てて、けっこう言葉をハンマーで叩いてるな、という感じがしましたね。それと、彫金するようにちょこちょこ、目立たないところに言葉を入れたり、はめこんだりしてて、へー、と思って。言葉と映像と音楽が合わさって、波のように遊んでるんだよね。どんどん深くなっていく感じで。こんな微調整ができる繊細な人だったんだなって初めて気がつきました(笑)

 

生田 私は昔から見させていただいていて……言葉の使い方とか、個人的に好きすぎて感想を言いにくいんですけど(笑)言葉がすごく素敵なのに、本当に言いたいことは言葉で伝えないみたいな。写真や音楽の存在感もすごかったんですけど、今回いちばん驚いたのは、どんどん長谷川さん自身の中に私が入っていくような感覚があって。他人の中に入り込んでいくというのが衝撃体験でした。

 

伊藤 ありがとうございます。お二方の感想をお聞きになって、長谷川さんはいかがでしょうか。

 

長谷川孝二

 

長谷川 ありがとうございます。何を言うかなかなか難しいんですけど、津波という大きな体験があって、それから原発の問題はこれからまだ続くわけですよね。それは距離のあるなしではなくて、僕たちみんなにとってすごく近いところにある問題だということです。それはずっと意識しています。
もう一つはですね、今の若い俳優さんたちは、2行しか自分の話をできないんですよ。これはメールとSNSの影響です。2行以上になると自分の思考が発揮できない。そうなると文学を誰も理解できなくなるので、これは非常に困ったことです。文学というのは、人生にとって非常に大事なものだと僕は思うんですね。じゃあ活字を読まなきゃダメだということで、あえて舞台の上に明朝体のテキストを出したりしているんです。
それと、ドラマリーディングという形は新しいものではなくて、実はもう25年くらいやり続けています。青森県立美術館でドラマリーディングクラブというのをやってまして、60〜70歳の人が鴨長明をやったり、太宰も漱石も、映像とか文字とか写真を使ってやるんです。僕は、ドラマリーディングは立派な一つの作品だと思って作っています。

 

伊藤 今、文学というキーワードが出て来たんですが、第二次世界大戦後、いわゆる戦争文学が台頭してきたのは10年過ぎた後だと聞きました。そうすると、震災でも10年目以降が文学や劇作家の出番かもしれないと思うのですがいかがでしょうか。

 

なかじょう 「時間軸で区切るって何だろう?」というのは一つ引っかかってるところですね。何周年何十周年ということじゃなくて、抱えた想いを言葉にできていない人にはまだ1年も経っていないのかもしれない。もうとにかくずっと引きずっていくべきものだと思ってるので、僕は時間軸は意識してませんね。

 

伊藤 常に現在進行形であるということですね。実はここに今朝の朝刊を持って来ました。河北新報には「東日本大震災死者数」が今も毎日載っているんですが、今日は行方不明者数2529人と書いてあります。この数字からも現在進行形であることがはっきり分かりますし、ここに「かえりびな」の記事があって、「帰ってこい」と思っていらっしゃる人が今もたくさんいることがここでも分かります。3本同時に拝見した時に、なんというか、それぞれの作品がオーバーラップする感覚がありました。たとえば被災の境界線の曖昧さだったり、静けさのようなものがそれぞれにありました。なかじょうさんの作品は「徒然だ」というタイトルですが、大正生まれの私の祖母あたりは「退屈だな」という意味で日常的に使っていた言葉です。長谷川さんの『壊れる水』の中でも、「死者があっちで退屈だ」というような話が出てきて、まるで一つの作品であるかのように感じたんですね。
それと、『徒然だ』の中で「なぞると物語がくっついてきちゃって」というセリフがあり、昨日も長谷川さんから「物語が必要だ」というお言葉がありました。物語を作るということについてはどうお考えですか?

 

なかじょう 芝居を通して思い出すことで、亡くなった人の物語が生まれることは意識していますね。山形に、幼児期に亡くなった人が生きていれば年ごろになる頃に、その方を人形と結婚させる風習があります。写真と人形をお見合いさせて、結婚させて奉納する。それは、思い出すことによって亡くなった人の物語を作っているのだと思います。作品の背景としては、そんなイメージをちょっとお借りしています。

 

長谷川 フランス語で歴史と物語はほとんど同じ言葉なんです。だから津波のその後、原発事故のその後の物語をしっかり作っていかないと、別な物語を歴史にされてしまいます。だからとても危機感を持って物語を作らないといけないと思っています。物語の土台はどこにあるのかというと、決して政治ではなく、ここで暮らしている我々自身にあります。そういうものを一つ一つ紡いでいくことは、これからとても大事になると僕は思います。物語って生きてる人の数だけあるので、テレビや映画で大衆受けするように単純化するのも大事なんだけれど、もっと一人ひとりの、それぞれの物語が拮抗して新しい価値観が生まれてくるところまで持っていきたいんですね、僕は。今日出ていたモノクロの写真を撮ったのは、一緒に出ていた高橋淳なんですけれども、僕は戯曲の言葉を説明するような写真は求めないんです。それぞれの感性がぶつかり合うことによって、見ている人も各々違う物語を受け取るんですよね。とても言葉は足りないですが、そんな風に考えています。

 

伊藤 ありがとうございます。最後に、みなさんが演劇という手法を信じる、あるいは手放さない理由をお聞かせください。

 

生田 私にとっては演劇は生きていくことそのものです。芝居をやっていないと自分が自分じゃなくなっちゃうんですよ。自分自身が生きていくために演劇がものすごく重要です。それと、ここで演劇をやることで、地域の人たちに寄り添っていきたい気持ちがあります。10年経っても、ずっと抱えている思いがある。そういうところに寄り添っていけるのが演劇かなと。被災直後は演劇どころではない状況もありましたが、何年経ってもずっと寄り添って物語を紡いでいくことが、地域の演劇人としてできることではないかと思っています。

 

なかじょう 僕は演劇を手離しちゃうと社会的な脱落者になりかねないのでしがみついている面もありますけれども(笑)劇団員と一緒に稽古して、その人の人生を垣間見たり、その言葉を僕が変換して返したりっていう作業が大好きなので、関われるならずっと続けていきたいですね。

 

長谷川 とても難しい問題で、うーん……僕の場合は、演劇が無いと生きていけないかというと、そうでもないです。職業にしているので今までやってきましたが、僕の人生には音楽であるとか美術であるとか哲学であるとか、ほかの物事もいっぱいありますので。演劇という表現形態はとても優れているので、自分の美意識を表現するには一番いいと思っていますが、生きることは別な部分でやっている気がします。

 

伊藤 根本的な問いにお答えいただいて、お聞きいただいているみなさんにもいろいろ響くところがあったのではないかと思います。
さて、お時間も迫ってまいりました。仙台舞台芸術フォーラムは、岩手、宮城、福島そして東京のアドバイザーの方に見守っていただいております。今日は客席にそのお一人である武田さんがいらっしゃるので、お言葉を頂戴したいと思います。

 

武田 こんばんは、武田と申します。昨日今日と拝見した舞台と、事前インタビューでみなさんがお答えになっていた内容から感想を述べたいんですが、みなさん震災を受けて「言葉を失った」というのがすごく印象的でした。長谷川さんのパネルに「劇作家にとって生きるべき世界を無くしたも同じ」とありましたが、まさにそんな感じだったのかなと。生田さんも「何も書けなかった」とおっしゃってましたよね。たとえば音楽の人たちは2週間後くらいには慰問に行ったり、すぐ動き出せても、演劇の方たちは本当に大変だっただろうと思います。一方でなかじょうさんは、避難所で毛布にくるまっている人たちの前で何ができるんだろうと思った、と。その人たちと向き合うことが本当の観客論なんじゃないかとおっしゃっていて。被災地の小学校に読み聞かせで回られた時のことも、読み聞かせは単に聞かせることではなく伝えることなんだと。それは受け取ってくれる相手、つまり観客がいて初めて演劇が成り立つということをおっしゃっているのかなと思いました。

 

伊藤 武田さん、ありがとうございました。それでは最後の締めとして、ご来場のみなさまに一言ずつメッセージを頂戴したいと思います。

 

生田 本日はご来場いただきまして誠にありがとうございました。9年経ちますけど、今日みなさんとこの場をともに過ごさせていただいたことを何より嬉しく思います。震災のことはずっとずっと常に隣にあって、やっぱりそれを作品にし続けていきたいので、こういう機会にめぐまれて本当にありがたかったです。

 

なかじょう 今回のように続けて3つの作品を見るのは、お客さんは大変だと思います。でも3作品見てトークもさせていただいて、ほんとに贅沢な時間だなと。私たちもまた、自分と違う視点を知ることで得るものがありました。本当にどうもありがとうございます。

 

長谷川 このような企画を今年を含めて3年間おやりになるということで、ぜひ実りあるものにしていただきたいと思います。実りというのは、今日お話したように、自分たちの歴史を作ることだと思います。ぜひ単純化することに惑わされずに3年間、新しいものを作り続けていただきたいと思います。僕たちを招いていただいて本当にありがとうございました。

 

(2020年2月16日オープニングイベントにて)

(構成・編集:谷津智里)